寺の由来

寺の由来

(1) 永禄8年、武田信玄が開基した寺
西福寺は、今より450余年前の永禄8年(1565)武田信玄公によって開基されました。創建当時の寄進状、子勝頼の代の安堵状が、寺に保存されています。
最初の文書は、新地に西福寺なる寺を開山するとのこと故に、一貫二百四十文にあたる地を寺領として寄進する。造営にあたってはすみやかに行うべきことと記されています。創建年月日を推定することのできる文書でもあります。
(2) 開山は圭嶽珠白禅師
西福寺を開かれた住職は、福井県の心月寺で修業を積まれた圭嶽珠白禅師です。開山堂には圭嶽珠白大和尚、曹洞宗を宗からわが国へ伝えた道元禅師、曹洞宗を広めた瑩山禅師の像が安置されています。当時の貴重な宝物の一つに、 開山和尚袈裟 があります。
(3)西福寺が創建された当時の史的背景
永禄年間に武田信玄公がなぜ西福寺を西条地籍に創建したのだろうか。
永禄年間は、戦国時代の乱世であり、信濃では川中島の激戦が行われていた時期であった。地元松本平らでは、小笠原氏が敗れ武田氏の統治が行われていた。永禄8年というと、武田氏がこの地を配下におさめ、十数年を経た時代であり、戦乱の時代である。
この永禄年間に信玄公が安堵状を与えている寺に長興寺がある。長興寺の文書には、地元の領主三村氏が長興寺へ与えてきた寺領として認める。地領が替っても同様であるという内容が起こされている。西福寺に先だつこと5年前の永禄3年2月のことである。 長興寺と西福寺の場合を比べると、長興寺は地元洗馬朝日一円を支配していた土豪三村氏が寺へ寄進していた寺領分を引続き与えるというものであり、西福寺の場合は、新寺院建設に際して寺領を与えるという違いがある。更に大きく内容を異にすることは、 地元三村氏が武田氏に滅ぼされていることである。
西条久野井には、小笠原氏の家臣団の建立した寺があったが、武田支配下の西福寺成立に伴って土着の小笠原氏に従っていた住民層も、武田側の武士団に忠誠を誓うようになり、そのために小笠原氏の久野寺が衰え、各地区の土豪を檀家にもつ西福寺が成立してきた。
(4) 長興寺と西福寺の関係
西福寺は、長興寺を本寺とし、西福寺はその末寺としての関係を保って来たが、この関係はどのようなものであったのだろうか。
長興寺は信玄公の安堵状から永禄3年に曹洞宗として中興され、西福寺は5年後の永禄8年に創建されている。また、寺の開山からみると長興寺は才応総芸禅師で、西福寺はその弟子の圭嶽珠白禅師であると本末の関係は位置づけられてきた。
圭嶽珠白禅師の師、才応総芸禅師は名僧で学識も高く、圭嶽珠白禅師など高僧を輩出している。
圭嶽珠白禅師が最初に錫杖を下したところが長興寺であり、法を広めた寺が西福寺である。